宮崎兄弟生家(熊本・荒尾)
ず~っと気になっていた
「宮崎兄弟生家」
熊本県荒尾市荒尾949-1
0968-63-2595

前を通るたびに、疑問に思っていた!
有名な兄弟なのだろうか...
この日、閉館時間17:00 1時間前に思い切って入ってみた
かつての蔵部分が資料館となっている様子。

資料館の入場料は、大人200円

正直な話、何の知識もなかったものだから、
時間も限られた状態で、館内を回っても、
頭になかなか入ってこない...
宮崎兄弟12人いて、
うち史実に名を残してあるのが、
(情報出所)
http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/shoukai/rekisi/miyazaki.html
「宮崎八郎」
嘉永4年(1851)~明治10年(1877)
藩校「時習館」で学び、上京中、中江兆民らと親交。
中江兆民翻訳のルソー、「民約論」に感銘。
自由民権運動のリーダーとして、民権学校「植木学校」を創立。
明治10年「西南の役」で、
「熊本協同隊」を率いて薩摩軍に共鳴し共に闘った。
八代で若き命を散らした。
この八郎の生き様が、他の3兄弟の生き方の精神的原点となった。
「宮崎民蔵」
慶応元年(1865)~昭和3年(1928)
他の3兄弟(八郎・彌蔵・滔天)も、アジアの抑圧された民衆の救済、
アジア民族解放を目標としたが、手段は3人それぞれ異なっていた。
民蔵は貧農救済の立場から、土地均分を主張し、運動を進めた。
孫文とも親交があり、辛亥革命後、中国に渡り、革命の援助を行った。
孫文の三民主義の「民主主義」における「平均地権」の考えなどは
民蔵の思想が生きているとも。
「宮崎彌蔵」
慶応3年(1867)~明治29年(1896)
兄弟の中でも屈指の思想家である。
中国で、清朝の専制から解放する民権革命を起こし、
欧米列強の侵略に対抗する拠点を
全アジアに広げるという壮大な計画を持っていた。
滔天の目を中国に向けさせたのも彌蔵である。
自ら中国人になりきろうと髪も中国風(弁髪)にし、
名も「菅仲甫」と変え、家族とも音信を絶ち、
ひたすら中国の言語・習俗の習熟に励んだが、志なかばで病に倒れた。
「宮崎寅蔵(滔天)」
明治3年(1871)~大正11年(1922)
兄彌蔵の影響を受け、中国革命成功のため、
貧困の中にも物心両面での支援。
中国革命の一方のリーダー黄興たちと
孫文を引き合わせ同盟(中国同盟会)成立に尽力した。
著書としては、孫文の存在を、
中国知識人や学生に知らしめた「三十三年の夢」がある。
1897年には犬養毅の依頼により、
亡命中の孫文を荒尾の生家にかくまっている。
中華民国・孫文の名が出てくるとは
当時の偉人達と親交をもち、互いに影響を与えていた様子がうかがえる。
想像以上のビッグネームだったことに驚いた...。
また時間があるときに改めて行くことに!






